日記

もう何年同じことを言い続けているのかと自分でも呆れと恐ろしさを感じるところであるが、めっきりアニメや映画などの映像作品を一本通して観ることができなくなってしまった。それに加えて、活字離れもますます進行して留まることを知らない。 ここで俺がひっそりと書き残している願望、長編小説を読み通す気力なんてものはいったいいつになったら復活するのか、というかどうやったら復活するのだろうか。分からない、俺はひたすら疲れているし頭がぼんやりとしてうまく物事が考えられない。

 

気力、活力、エネルギー、行動資源......。呼び方はなんでもいい、とにかく今の俺にはそういうものが圧倒的に不足している。だらだらと同じような不満ばかりネットに書き散らしても、状況が好転するわけではない。そんなことしてる暇があったら、部屋の掃除をしたり散歩にでも出かけた方がましだ。そんなことは分かっている。分かっているつもりである。ともあれ、体が重いのだ。のそのそとPCの前に移動してネットサーフィンに興じ、あんまり難しいことを考えられなくなった脳みそを誤魔化すことで日々を食い潰す、虚しさが満ち満ちていく日々を送っていると、時間はどんどん加速してゆき、日は昇り日は沈む。陰謀だ陰謀だ。

 

近頃、自分が何も語れない人間になっていくことに恐怖を感じるようになってきた。俺には年相応の経験というものを積み重ねてこなかったという自覚がある。もともと持っていた趣味をほとんどほったらかしたまま、かといって新しい趣味を探すこともない日々を、無為に積み重ねすぎてきた。そんな実感がある。たまには少しでも明るいブログを書きたいと思ってPCの前に座っても、気づけばいつものようにひたすら暗い気持ちになって、特に中身も教訓もない文章が止まらなくなっている。なんなのだこれは、いったいどうすればよいのだ。陰謀だ陰謀だ。

 

 

最近辛うじて読み通せた本の話でもするか。

 

 

かつて村上春樹が、「文体は心の窓である」といったようなことをどこかで書いていたと記憶している。俺がそんな文言をふと思い出したのは、『さようなら、ギャングたち』の構成から、自然と『風の歌を聴け』のことを想起したからだ。俺はまあまあ村上春樹のファンなので、何かにつけすぐ村上春樹と結びつけてしまうのかもしれない。でも裏表紙を見たところ、かの吉本隆明村上春樹の名前を出したうえで本作を絶賛しているみたいなので、あるいは両作品を比較するような批評とかも結構あったりするのかしらん。

まあ今はそんなことはどうでもいい。ともかく俺の脳内で、この二つの作品はなんとなく結びつけられた。そしてなんとなく、この『さようなら、ギャングたち』の方が、なんというか、より詩的なつくりをしているというか、より小説っぽくないというか......。うまく言えないが、そんな感触を得た。

初めはよく分からないまま読み進めた。しかしだんだん文体のリズムに慣れてくると、文章は風のように俺の中を流れていった。それはナイスな体験だった。リズムにのれるのは良いことだ。リズムを通じて、美しいもの・下劣なもの・楽しいこと・哀しいこと、そんななんやかんやが渦巻いていくのを、俺は感じていたいのだ、この肌で、このこころで。

そんな風にしてリズムを取り続けて、俺はくたくたになって、良い汗をかいて、満足して死んでみたいものだ。できるものなら。でもなかなかそううまくはいかないところに人生の悲哀があり、そんな悲哀がもしかしたら俺の感情を揺さぶるのかもしれない。

そんな風に思った。