pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』を読む

俺がTwitterでphaさんをフォローしたのは結構前のことで、ある日おすすめユーザーに出てきた謎の残像つき自撮りアイコンと「だるい」を軸とした低気圧気味な呟き、そしてやたら多いフォロワーの数に興味を引かれて、そのときは何となくフォローしたのだった。その後少しずつ、phaさんがブログやシェハウスで有名な人であるということをぼんやりと認識しはじめ、最近ではエリーツという「文学系ロックバンド」での活動を始めたということも知っている。しかしいくつかあるらしい著書の方はノータッチのままだった。noteの日記にも課金していないし、俺はずっと金払いの良くないフォロワーであった。が、つい最近俺はとうとうphaさんの著書を購入した。これもTwitterでのphaさん本人の呟きから知ったことであるが、Kindleのセールでとってもお安く買えたからである。最近電子書籍を活用し始めて、やれ限定無料だのセール価格だのポイント還元だの、俺の貧乏性を刺激する仕組みに翻弄されつつある今日この頃である。で、三冊買った本のうちの一冊がこれ。

 

 

 

まずタイトルがいいですね。俺もずっと、「どこか遠くへ行きたい」というような呟きをぶつぶつとSNSに吐き出したりしている。ときに鬱気味みに、ときに透明な感情で。まあそんな俺の気持ちとこの本の実際の内容がどのくらいリンクしてるのかは知らないが、とにかく読んでみるかと俺はスイスイと画面をタッチし始めた。

 

読んでみて、なんか昔、よく学校で書かされた「将来の夢」的な自己分析レポートをふと思い出した。自分はこういった進路を経て将来こんな仕事に就きたいです、みたいなやつ。あれには少し困った。俺には将来就きたい仕事とか一切なかったからである。というか働きたくなかった。周りのみんなはだいたい、将来はこんな仕事について何歳で結婚して……とか語っていてすごいなと思ったものである。地に足の着いたとかいうやつであろうか。そういう意味では、俺の足が地に着いたことなんてたぶん一度もなかったであろう。ずっとふわふわしながら今まで何となく流されてきた。よく「お前には危機感が足りない」と親や先生に心配されたものだが、俺にもどうしたらいいのか分からなかった。たぶん誰にもどうしようもなかったのだ、それが俺の生まれ持っての本性であるという理由で。

 

して、この本の中でphaさんは、ふらふらとしながらわりと自由に生きておられるように見える。仕事を辞めてからは特に定職に就く様子もなく、ふらっと旅に出たりサウナにハマったりしているphaさんの日常。学校に通っていた頃の俺に紹介してあげたいくらいである。「なあええか坊主、世の中いろんな生き方があってええんやで。何も誰もが汗水たらして働いたり、家庭を築いたり、貯金を貯めようと頑張ったり、そういったことに夢を見る必要はない。自然体で生きられるのが人間いっちゃんや、覚えとき。」

俺は関西人ではないが、こういうとき(?)は何となくエセ関西弁を使いたくなる。何となくごめんなさい。

 

もちろんphaさんにはphaさんなりの苦労があるだろうし、いくら憧れたって誰もがphaさんのように生きられるものでもないだろう。でも、生き方のおおまかな方向性というか、日々の生活を送るうえでのエッセンスみたいなものは参考にしたいと思った。俺の今の生活は「家」「会社」「コンビニ」という三地点上でほぼ完璧に閉じられてしまっていて、そんな俺の精神はもうどろどろになってしまっている。phaさんはphaさんで毎日「だるい」とか呟いておられて、その辺に俺も勝手に親近感を覚えていたりもしたのだが、しかしphaさんは今の俺に足りないものも持っておられるように思われる。つまり、家に閉じこもって欝々としているくらいなら、いろんな場所へ行ってみたり何らかのアクションを起こすこと。いろんなものを見て、聞いて、感じること。その結果待っているものがまた「疲れ」であるのだとしても、俺は今、そんな疲れを感じていたい。そんな風に思う。まあコロナ?とかいう謎の感染症のせいであまり大っぴらな行動がとりにくい時勢ではあるが、それでも。

 

まだ読んでいない著書の方も近々読むとして、phaさんのnoteの方にも興味が出てきた。最近のphaさんはいったいどんな日記を書いておられるのだろう。生来俺はエッセイとか日記文学とかいうジャンルの本が好きなのである(ここ最近読んだのだと『富士日記』とか面白かった)。まだ分からないが、そのうち課金するかもしれない。そんなところである。