休日

朝起きると、なんとなく肌寒いのもあって布団の中でだらだらとスマホをいじって時間を潰す。その後えいやっと起き上がり、湯を張って風呂に入る。

身支度をして外に出ると、空は曇り空でやや雨も降っている。辺りの景色はぼんやりと青色に染まり、いつもより少しだけ色素が薄らいで見える。

サイゼリヤでランチを食べる。俺の他には、子どもの話で盛り上がるママさんたちと、定年退職を迎えているであろう老夫婦がもくもくと食事をしている。

電車を乗り継いで、本屋のある街にやってきた。ストリートピアノで女の子がピアノを弾いていた。ハウルの動く城の曲である。俺はハウルを劇場で観たことある。なんだか懐かしい気持ちになったが、俺はハウルの内容をほとんど憶えていない。

本屋でお目当てのコミックを買う。模造クリスタル作品集と、シメジシミュレーションの新刊と、16bitセンセーションの新刊。新刊といっても、発売してからまあまあ時間が経っている気もするが、ともかくどれもずっと欲しかったものである。

会計の際にお釣りの小銭を床にぶちまけてしまい、恥ずかしい気持ちになる。俺は無言で小銭を拾う。

ブックオフに寄って伊藤計劃の小説を買う。俺は伊藤計劃の小説をきちんと読んだことがない。そして俺の本棚にはまだ読まれていない本がたくさん並んでいる。

俺はぶらぶらとアーケード街を歩く。歩いていると、この道はどこまでも果てしなく続いているような気がしてくる。そして同時に世界のどん詰まりにいるような気もする。それは気の持ちようかもしれない。俺はどこにいるのだろうか。

俺はまた電車に揺られる。帰宅して布団に入ると、眠気が襲ってくる。気が付くとそのまま夕方まで寝てしまって、俺の休日は一日を終えようとしている。誰とも会話らしい会話もしないまま、時間はただ流れていく。

日記

もう何年同じことを言い続けているのかと自分でも呆れと恐ろしさを感じるところであるが、めっきりアニメや映画などの映像作品を一本通して観ることができなくなってしまった。それに加えて、活字離れもますます進行して留まることを知らない。 ここで俺がひっそりと書き残している願望、長編小説を読み通す気力なんてものはいったいいつになったら復活するのか、というかどうやったら復活するのだろうか。分からない、俺はひたすら疲れているし頭がぼんやりとしてうまく物事が考えられない。

 

気力、活力、エネルギー、行動資源......。呼び方はなんでもいい、とにかく今の俺にはそういうものが圧倒的に不足している。だらだらと同じような不満ばかりネットに書き散らしても、状況が好転するわけではない。そんなことしてる暇があったら、部屋の掃除をしたり散歩にでも出かけた方がましだ。そんなことは分かっている。分かっているつもりである。ともあれ、体が重いのだ。のそのそとPCの前に移動してネットサーフィンに興じ、あんまり難しいことを考えられなくなった脳みそを誤魔化すことで日々を食い潰す、虚しさが満ち満ちていく日々を送っていると、時間はどんどん加速してゆき、日は昇り日は沈む。陰謀だ陰謀だ。

 

近頃、自分が何も語れない人間になっていくことに恐怖を感じるようになってきた。俺には年相応の経験というものを積み重ねてこなかったという自覚がある。もともと持っていた趣味をほとんどほったらかしたまま、かといって新しい趣味を探すこともない日々を、無為に積み重ねすぎてきた。そんな実感がある。たまには少しでも明るいブログを書きたいと思ってPCの前に座っても、気づけばいつものようにひたすら暗い気持ちになって、特に中身も教訓もない文章が止まらなくなっている。なんなのだこれは、いったいどうすればよいのだ。陰謀だ陰謀だ。

 

 

最近辛うじて読み通せた本の話でもするか。

 

 

かつて村上春樹が、「文体は心の窓である」といったようなことをどこかで書いていたと記憶している。俺がそんな文言をふと思い出したのは、『さようなら、ギャングたち』の構成から、自然と『風の歌を聴け』のことを想起したからだ。俺はまあまあ村上春樹のファンなので、何かにつけすぐ村上春樹と結びつけてしまうのかもしれない。でも裏表紙を見たところ、かの吉本隆明村上春樹の名前を出したうえで本作を絶賛しているみたいなので、あるいは両作品を比較するような批評とかも結構あったりするのかしらん。

まあ今はそんなことはどうでもいい。ともかく俺の脳内で、この二つの作品はなんとなく結びつけられた。そしてなんとなく、この『さようなら、ギャングたち』の方が、なんというか、より詩的なつくりをしているというか、より小説っぽくないというか......。うまく言えないが、そんな感触を得た。

初めはよく分からないまま読み進めた。しかしだんだん文体のリズムに慣れてくると、文章は風のように俺の中を流れていった。それはナイスな体験だった。リズムにのれるのは良いことだ。リズムを通じて、美しいもの・下劣なもの・楽しいこと・哀しいこと、そんななんやかんやが渦巻いていくのを、俺は感じていたいのだ、この肌で、このこころで。

そんな風にしてリズムを取り続けて、俺はくたくたになって、良い汗をかいて、満足して死んでみたいものだ。できるものなら。でもなかなかそううまくはいかないところに人生の悲哀があり、そんな悲哀がもしかしたら俺の感情を揺さぶるのかもしれない。

そんな風に思った。

2021年振り返り

気づけば2021年もそろそろ終わりそうとのことである。なんかあんまり実感がわかないのは、年末年始のうち半分くらいは会社に出勤することが確定していることも関係しているかもしれない。あるいは、俺が現在テレビというものを所有せず年越し番組を見られないことや、こたつに入っておせちなんかをつまんだりするような精神的余裕、物質的余裕がまるでないことも関係しているのかもしれない。俺はひとり淡々と孤独に年明けを迎え、その延長線上にまた泥沼のような日々が続いていくような、そんな予感をもう既にひしひしと感じている。そんな予感を感じながら生きていくのは楽しいかと自問自答すると発狂しそうになるので、なんとなく自分の気持ちを適当にごまかしながら生活している。そしてそんな生活は何も最近に限ったことではなく、振り返ってみれば一年を通じて、そんなぐだぐだした気持ちで日々をなんとかやり過ごしてきたような気がする。まあ環境的にはいろいろと変化はあったのだけれど、肝心の俺の精神が向上する気配がまるでなく暗い思考に歯止めがかからないので、もう俺は精神の安定を図るためのなんらかのおくすりを処方してもらった方がいろいろとうまくいくのではないかと思い始めてはいるのだが、それも折に触れてそう思うだけで、結局は俺の行動力のなさ、主体性のなさを実感するばかりで、休日は布団にもぐって惰眠を貪ることでいたずらに時間を消費することしかできず、そのぶん俺のこころのなかにぽっかりとした真空地帯が虫食いのように広がっていくのを感じていた。

 

2021年、なんかいいことあっただろうか。よく思い出せない。ワクチン打ったからって特段どこかに遊びに行くこともなく、旅行することもなく、友達と遊ぶこともなく、そもそも友達がおらず、本当にもくもくと死んだ目をして労働していただけだ。俺はたぶんこの先誰かと結婚することもないだろう(そこには経済的な問題もあるし、性格的な問題もある)。もし奇跡的な確率でそんなイベントが俺の人生に生じることがあったとしても、俺が子をもつ親になることはまずないだろう。(それは経済的な問題であるとともに、俺の個人的な思想の問題でもある)。客観的に見て、俺は社会のお荷物以外の何者でもないだろう。......こんなことばかり考えてしまう。そしてそれはおそらく事実に違いないので、俺はますます捨て鉢な気分になる。でもやっぱり野垂れ死ぬのは怖いので、労働から抜け出すことができない。

 

終わってる。

 

なんにせよ、俺は自分一人が食っていくだけの金を稼ぐ低賃金労働に従事することで精いっぱいであるし、この状況がそう簡単に好転するともあんまり思えない。それは俺がどこまでも俺であるがために。

 

今年もいろいろと落ち込みがちな年になったが、その原因の大半は労働によるものであることはあまりにも明白である。ゆえに俺は年末ジャンボを購入したのだ。金だ、金さえあれば俺は、俺をとりまく諸々の苦痛から解放されるだろう。街に降り注ぐ雨をこの身に浴びながら「俺は自由だ!」と高らかに宣言し、くそったれなスーツを脱ぎ捨て、どこまでも晴れやかな気持ちで退職手続きを済ませ、一生を引きこもって過ごすことができるであろう。宝くじは貧者の税金だとかそんなことは知ったことではない。俺にも少しは安寧の夢を見させてくれ。

 

頼んます、頼んます......

田村隆一『言葉のない世界』

俺はあんまり詩集というもの読んでこなかった人間である。今ぱっと思い出せるのは、新潮文庫の『宮沢賢治詩集』、それと近年では岩倉文也の作品を2冊ほど買って読んだくらいだ(こちらは詩と短歌の作品集である)。なのであんまりえらそうなことは言えないが、それでも俺はこれらの文学作品に感銘を受けたものである。むずかしいことは分からないが、俺はそこに表現されている世界を、言葉を、本棚に並べておきたい。言葉によって表現された誰かの純粋なまなざし、俺はそういったものをコレクションしておきたいと思うことがある。

 

『言葉のない世界』も、そんな思いに駆られて俺の本棚に収まることになった。繰り返しになるが、俺は詩という文学形式に詳しいわけじゃない。だが、何かこれは素晴らしい作品であるぞという感覚がある。俺はたいした人間じゃないかもしれんが、俺のこころは石でできてはいない。まあ鈍感な人間ではあるかもしれんが、そんな俺のこころにだってたまには光が差すようなこともあるのだ、たぶん。

 

 

『映像の世紀』を観る

俺は別に、歴史について特に詳しいわけじゃない。世界史についての俺の知識なんてものは高校教育程度のものでほぼアップデートが止まっているし、日本史に関してはそもそも選択科目で選ばなかった。今から本腰を据えて学びなおそうという気力もない。そんな俺であるが、いつかこんなものを買っていた。

 

 

なかなか高い買い物であった。そもそもなぜ買おうと思ったのかという話は何か自分でもうまく思い出せないのであるが、買ってから結構長いこと放置していたような気がする。俺の手元でBlu-rayを再生できる機器は比類なきソニーPS4になるのだが、ここ一年ほどはそもそもゲーム意欲があんまりなくて、PS4はその間ずっと部屋の片隅で物言わぬオブジェと化していた。そんでまあ最近久々に稼働を再開したところなので、せっかくだしこの『映像の世紀』ってやつも少しずつ観ていきますかという気になって、先日全部見終わったところである。

 

そこには20世紀という時代が、映像として記録されていた。戦争と殺戮、血と死体。映像というメディアに収められた圧倒的な生々しさと様々な手記や書物等からの引用、そして静かな語りのナレーション。まったく、俺はほとんど涙が出そうなほどだった。土地・民族・思想・宗教、よく分からんがそういったものを理由にして、どうして人間がかくも惨たらしく殺し合わなくてはならないのであろうか。いかなる正当化や大義名分をもってして、より効率的な殺戮の追求なんてものが許されるのであろうか。どういった種類の人間が、より多くの人々を支配し、搾取したいという欲望に情熱を傾けることができるのであろうか。俺には分からない。分かるのは、何か馬鹿でかい規模の思惑の衝突、その巻き添えになって死んでいく数えきれないほどの人々がいるということだけだ。歴史というものには間違いなくそういった負の側面が宿命のようについてまわるものであるし、それは目に見えるものであれ見えなものであれ、現代まで連綿と続いている。俺がここで見たものは、様々なかたちで受け継がれてきた人類の人殺しとしての顔、その一端に過ぎないのであろう。だがとにかく、そのインパクトは凄まじいものがあった。

 

映像の世紀』の大部分は、ひたすら陰鬱な気分にさせられるような構成となっている、というか俺はなった。なかなかショッキングな映像も多々ある。その辺は注意しておいた方がいいかもしれない。だが観る価値はある、俺はそう思う。

pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』を読む

俺がTwitterでphaさんをフォローしたのは結構前のことで、ある日おすすめユーザーに出てきた謎の残像つき自撮りアイコンと「だるい」を軸とした低気圧気味な呟き、そしてやたら多いフォロワーの数に興味を引かれて、そのときは何となくフォローしたのだった。その後少しずつ、phaさんがブログやシェハウスで有名な人であるということをぼんやりと認識しはじめ、最近ではエリーツという「文学系ロックバンド」での活動を始めたということも知っている。しかしいくつかあるらしい著書の方はノータッチのままだった。noteの日記にも課金していないし、俺はずっと金払いの良くないフォロワーであった。が、つい最近俺はとうとうphaさんの著書を購入した。これもTwitterでのphaさん本人の呟きから知ったことであるが、Kindleのセールでとってもお安く買えたからである。最近電子書籍を活用し始めて、やれ限定無料だのセール価格だのポイント還元だの、俺の貧乏性を刺激する仕組みに翻弄されつつある今日この頃である。で、三冊買った本のうちの一冊がこれ。

 

 

 

まずタイトルがいいですね。俺もずっと、「どこか遠くへ行きたい」というような呟きをぶつぶつとSNSに吐き出したりしている。ときに鬱気味みに、ときに透明な感情で。まあそんな俺の気持ちとこの本の実際の内容がどのくらいリンクしてるのかは知らないが、とにかく読んでみるかと俺はスイスイと画面をタッチし始めた。

 

読んでみて、なんか昔、よく学校で書かされた「将来の夢」的な自己分析レポートをふと思い出した。自分はこういった進路を経て将来こんな仕事に就きたいです、みたいなやつ。あれには少し困った。俺には将来就きたい仕事とか一切なかったからである。というか働きたくなかった。周りのみんなはだいたい、将来はこんな仕事について何歳で結婚して……とか語っていてすごいなと思ったものである。地に足の着いたとかいうやつであろうか。そういう意味では、俺の足が地に着いたことなんてたぶん一度もなかったであろう。ずっとふわふわしながら今まで何となく流されてきた。よく「お前には危機感が足りない」と親や先生に心配されたものだが、俺にもどうしたらいいのか分からなかった。たぶん誰にもどうしようもなかったのだ、それが俺の生まれ持っての本性であるという理由で。

 

して、この本の中でphaさんは、ふらふらとしながらわりと自由に生きておられるように見える。仕事を辞めてからは特に定職に就く様子もなく、ふらっと旅に出たりサウナにハマったりしているphaさんの日常。学校に通っていた頃の俺に紹介してあげたいくらいである。「なあええか坊主、世の中いろんな生き方があってええんやで。何も誰もが汗水たらして働いたり、家庭を築いたり、貯金を貯めようと頑張ったり、そういったことに夢を見る必要はない。自然体で生きられるのが人間いっちゃんや、覚えとき。」

俺は関西人ではないが、こういうとき(?)は何となくエセ関西弁を使いたくなる。何となくごめんなさい。

 

もちろんphaさんにはphaさんなりの苦労があるだろうし、いくら憧れたって誰もがphaさんのように生きられるものでもないだろう。でも、生き方のおおまかな方向性というか、日々の生活を送るうえでのエッセンスみたいなものは参考にしたいと思った。俺の今の生活は「家」「会社」「コンビニ」という三地点上でほぼ完璧に閉じられてしまっていて、そんな俺の精神はもうどろどろになってしまっている。phaさんはphaさんで毎日「だるい」とか呟いておられて、その辺に俺も勝手に親近感を覚えていたりもしたのだが、しかしphaさんは今の俺に足りないものも持っておられるように思われる。つまり、家に閉じこもって欝々としているくらいなら、いろんな場所へ行ってみたり何らかのアクションを起こすこと。いろんなものを見て、聞いて、感じること。その結果待っているものがまた「疲れ」であるのだとしても、俺は今、そんな疲れを感じていたい。そんな風に思う。まあコロナ?とかいう謎の感染症のせいであまり大っぴらな行動がとりにくい時勢ではあるが、それでも。

 

まだ読んでいない著書の方も近々読むとして、phaさんのnoteの方にも興味が出てきた。最近のphaさんはいったいどんな日記を書いておられるのだろう。生来俺はエッセイとか日記文学とかいうジャンルの本が好きなのである(ここ最近読んだのだと『富士日記』とか面白かった)。まだ分からないが、そのうち課金するかもしれない。そんなところである。

 

 

 

三島芳治『児玉まりあ文学集成』を読む

俺はこれまで、なにか本を読みたいと思ったならばまずは書店へと足を運びお目当ての書籍を手に取り、また何か目を引くタイトルや装丁のものがあればついでに購入してみたり、といった手段をとっていた。俺の頭の中には、書籍というものはみな紙にインクで文字が印刷されたものであるという観念があり、電子書籍という読書の形態にあまりピンとくるものがなかったため、これまであまり積極的に利用しようとは思ってこなかった。が、そんな俺も気づけばAmazonkindleという素晴らしきサービスを活用するようになっていた。しかも今ではkindle unlimitedの会員である。紙の本の収納スペースの問題に頭を悩ませた結果、俺は電子書籍に手を伸ばしてみたわけであるが、ワンクリックで購入が完了してダウンロードが終わればすぐ読める、というのは思いのほか便利だった。まあ小説とかは今でもあんまり電子データで読む気にならないが、漫画や軽めのエッセイなんかを読みたくなったときは、これからも積極的に活用していくことだろうと思う。

で、今回その素晴らしきサービスを活用して購入したのが『児玉まりあ文学集成』である。kindle unlimitedの会員である俺は1巻を無料で読めたので、暇な時間になんとなくダウンロードして読んでみたのだが、読んでみて気に入ったので2巻と3巻を今度はきちんと金を払い購入した。2巻と3巻も期待を裏切らない感じで大変よろしかった。

文学部(文芸部じゃないよ)部長である文学少女「児玉まりあ」さんと、彼女の相手役である「笛田君」の間で繰り広げられる、不思議で知的で甘酸っぱい様々なやりとり。それを読んでいると、なんか俺のこのぶよぶよにふやけてくたびれている脳みそにも、知性のきらめきが振りかけられてくるような気がした。「俺って死ぬまでに、あとどれぐらいの書物を読み、どれぐらいの言葉に触れられるのだろう。俺はどこまで行けるのだろう」なんてふと思ったりもした。まあふと思ったりするだけで、実生活のレベルではあまり影響が感じられないところを悲しむべきなのかもしれないが。俺のことはともかくとして、いろいろと勉強にもなるし、1話ごとに紹介されている参考文献の方にも興味がわいてくる。もちろん、話の構成や主役の二人の関係性の描写も丁寧で、漫画としてまっとうに面白い。3巻まで読んで、この先いったいどういった展開を経て終わりへと向かっていくのか、今から気になるところである。